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照片上的故事:热血华侨乘“兴安丸”回国
日期: 14年03月1期
照片上的故事:热血华侨乘“兴安丸”回国
编者按:

老照片,真实直观地记录了社会发展历程、百姓生活变迁,是历史的缩影和见证。横滨山手中华学校举办“老照片”征集活动,面向旅日华人华侨,征集家中保留的老照片。如果您家中有老照片,请寄到〒231-0024 横浜市中区吉浜町2-66  横滨山手中华学校 郑红老师。请留下联系方式,注明老照片的大概拍摄时间和地点以及其中的故事。让您家中的老照片,绽放超越时代的光彩。



征文作者                              吴应健(横滨山手中华学校第二届毕业生)

照片的年代(具体时间)•拍摄地点                 1953年8月•兴安丸

照片上的人物以及与作者的关系                       本人



照片上的故事

               中  文                          

1949年10月1日,毛泽东主席在天安门城楼庄严宣布:中华人民共和国成立了,中国人民从此站起来了!

新中国成立了,我们有了新的家园,新的家园百废待兴。我们要回家,我们要建设新中国。在日华侨们欢欣鼓舞,年轻的我们一腔热血,我们相约:一起回家!

这张照片就是我们1953年8月在日本京都府舞鹤市港口拍摄的,战后第二批在日华侨乘“兴安丸”集体回国前的情景。

我们带着对新中国的憧憬,带着归心似箭的期待,也带着终于成行的如释重负登上了“兴安丸”。

照片中心部白柱子左侧、红旗右侧向岸上人挥手告别的年轻人就是我!我的左侧戴眼镜的年轻人也是中华学校的第二届校友李玉鸿。当时回国的人非常高兴和兴奋,因为这批人回国愿望的实现一波三折。就在我们决定乘坐兴安丸号回国的当口,传来了这样的消息,据说台湾方面要派潜水艇炸沉“兴安丸”,日方一再拖延出航时间,加上在等待出航的过程中,有不少人食物中毒,在横滨的家人都十分担心自己的亲人。因此,当时准备回国的人和来送行的人组织起游行示威,要求日方尽快出航。所以当自己的愿望终于实现了的时候有谁能不兴奋不高兴呢?

另外,此次载乘者中除了在日华侨归国者外,还有护送在秋田花冈劳役的中国劳工遗骨的任务。这些遗骨中有被强行抓来的一般老百姓,也有八路军、国民党的被俘军人。由于战争吃紧,日本国内许多男人被征入伍,劳力奇缺,于是就把从中国抓来的人押送到日本做苦役。由于劳动强度过重,加上营养不良,很多人死去。就在日本战败前不久,华冈的劳工组织起暴动,这就是有名的“花冈事件”。起义失败了,之后不久迎来的是日本投降,二战结束。和我们同船护送回国的劳工遗骨有百余。出发前,有志者手捧他们的遗骨,还在横滨中华街走了一圈。我后来的老丈人余东照先生当时是组织送还劳工遗骨的积极分子,所以也被选为护送乘船回国的横滨代表。当我们乘坐的“兴安丸”抵达天津塘沽港时,先为死难劳工举行了隆重的上岸仪式---奏哀乐,解放军战士上船捧着死难者的遗骨下船。仪式完毕后,我们才下船。

当时我们那些单身回国的年轻人被编为“红组”,带家属的归国者被编为“蓝组”,下船后按组分住在不同的饭店。

脚终于踩在了祖国的土地上,我们觉得有了根基,因为有了我们华侨的回归,新中国建设一定更加日新月异,前程似锦。如今61年过去了,我们这一代归国华侨把青春把一辈子都献给了中国这片炽热的土地,虽然经历了许多磨难,但我不后悔当初的选择。



日文

1949年10月1日、毛沢東主席は天安門にて厳かに宣言した。「中華人民共和国は成立しました、中国人民は立ち上がった!」

新中国が成立し、私達に新しい家ができる、新しい家を築かなければならない。家に帰ろう、新中国を建設しよう。在日華僑は熱い心を奮い立たせ、若かった私達は中国への帰国を決めた。

この写真は1953年8月、京都舞鶴港にて戦後二回目となる在日華僑帰国者が乗る「興安丸」を撮ったもの。

私達は新中国への憧れを抱き、帰心矢の如し、すべての出発準備を終えて「興安丸」に乗船した。

写真中白い柱の左側、赤旗右側、岸壁の人々に手を振ってお別れをしているのが私。私の左側でメガネをかけている若者は中華学校第二期卒業生の李玉鴻さん。当時帰国する人はとてもうれしかったし興奮していた。なぜなら紆余曲折を経て帰国を実現させることができたからである。私達の帰国が決まった頃、台湾が潜水艦を使って「興安丸」を沈没させるという噂が広まり、日本側は出航日時を延期していた。さらに、出航待ちをしている間に多くの人が食中毒になり、横浜にいた家族はとても心配していた。このような事態を解消するために、帰国者と見送りに来た人たちが日本側に対し早期出航するようデモを行った。こんな思いをしてようやく帰国が実現し、誰が興奮せずにいられるでしょうか。

この船には在日華僑帰国者以外に、秋田県花岡鉱山で強制労働させられ亡くなった中国人の遺骨を送還するという任務もあった。亡くなった方々は強制連行された一般人、八路軍、国民党の捕虜軍人もいた。戦中日本の多くの男性は兵士として戦地に向かい、日本国内の労働力が乏しくなり、中国から中国人を強制連行し辛い労働をさせた。過酷な労働環境、ろくな食事も取らせてもらえず栄養失調になり、たくさんの人が亡くなった。敗戦直前、花岡の労働者たちが暴動を起こした。これが「花岡事件」である。この暴動は失敗に終わったが、間もなく日本は投降し、第二次世界大戦が終わった。私達と共に帰国する労働者の遺骨は百を超えていた。出発前、皆両手で遺骨を抱え、横浜中華街を歩いた。のちに私の義父となる余東照さんは当時遺骨送還作業のリーダー格で、彼も遺骨送還の横浜代表に選ばれた。「興安丸」が天津塘沽港に到着した際、まず強制労働で亡くなられた方々の追悼式が行われ、人民解放軍の軍人たちが船から遺骨を下ろした。追悼式が終了してから、私達は下船した。

当時帰国者を独身者は「紅組」、家族と共に帰国した者は「青組」とグループ分けし、それぞれのグループに分かれて宿に泊まった。

ようやく自分の足を祖国の地につけ、自分の土台ができたと思う。私達華僑の帰国があったからこそ、新中国の建設は日進月歩、明るい前途が開けた。あれから61年が過ぎ、私達帰国華僑は自分の一生をすべて熱い中国の地へと捧げた。たくさんの苦難を乗り越えてきたが、当時私が帰国という道を選んだことに後悔はしていない。

                (日文翻译:罗顺英)
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