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石破茂发表战后80周年感言:继承历代内阁立场,强调文官统制重要性
日期: 2025/10/11 12:09
中文导报讯 10月10日,日本首相石破茂发表了在战后80周年之际关于先前大战的“内阁总理大臣感言”。此次感言以不经内阁会议敲定的形式发布。石破在开头基于战后50年、60年、70年首相谈话表示,历史认识方面继承着历代内阁的立场。

石破指出,指出由于政府失去了对军部的统制而发展为开战,强调政治优越于军事的“文官统制”重要性。

石破分析称,1941年日美开战前年轻官僚等精英云集的“总力战研究所”虽然预测“日本必败”,但未能阻止开战的原因在于战前没有合理整合政治与军事的机制。

石破认为,在战后最严峻复杂的当前安全环境下,必须把历史教训铭刻于心。他主张称,通过每个国民对先前的大战与和平的方式进行主动思考,和平国家的基础将得到进一步强化。

石破还提及1940年帝国议会上批评中日战争、大部分内容从会议记录中被删除的的前众议员斋藤隆夫“反军演说”,还提到议会对军方的审查职能欠缺。他回顾道,言论控制加大导致媒体转而采取积极支持战争的论调,这一点也不容忽视。

日本首相石破茂发表“战后八十年之际内阁总理大臣所感”。全文如下:


【中文】

自上次大战结束以来,已经过去了八十年。

在这八十年间,我国始终作为一个和平国家而前行,竭尽全力为世界的和平与繁荣作出贡献。今日日本的和平与繁荣,正是建立在包括阵亡者在内的无数人的宝贵生命与艰难历史之上。

我在三月访问了硫黄岛,四月在菲律宾卡利拉亚瞻仰了菲岛战殁者纪念碑,六月出席了冲绳全战殁者追悼仪式并参观了姬百合和平纪念资料馆,八月又出席了广岛、长崎原爆死难者慰灵仪式及终战纪念日全国战殁者追悼仪式。通过这些行程,我再次郑重地将对那场大战的反省与教训铭记于心。

在此之前,于战后五十年、六十年、七十年的节点上,内阁总理大臣均曾发表谈话。对于历史认识问题,历届内阁的立场,我亦予以继承。

然而,在以往三次谈话中,对于“为何无法避免那场战争”这一核心问题,并未给予充分触及。即便是在战后七十年谈话中,也仅有“日本试图以武力来解决外交与经济的僵局,而国内政治体制未能成为制止这一行为的力量”这样的表述,但未进一步深入论述。

为何当时的国内政治体系无法成为制约力量?

经历第一次世界大战之后,世界已进入“总力战”的时代。根据当时内阁设立的“总力战研究所”及陆军省设立的“秋丸机关”等机构的预测,日本的失败几乎是必然的。许多有识之士也意识到战争艰难。

政府及军部高层明知如此,却仍未能作出避免战争的决断,反而一头陷入了鲁莽的战争,最终牺牲了无数国内外无辜的生命。尽管前首相米内光政曾警示:“为避免渐贫而致暴贫,务必慎之”,但为何仍无法扭转大战之路?

值此战后八十年之际,我希望与全国国民一同深思这一问题。

(一)大日本帝国宪法的制度性问题

首先,应指出当时体制上的缺陷。战前的日本并无能将政治与军事适当统合的机制。

在《大日本帝国宪法》之下,军队的指挥权——即统帅权被视为独立,制度上不存在“文人统制”的原则,也就是说,政治(文人)在政治与军事关系中并未被制度性地确立为优位。

内阁总理大臣的权限亦极为有限。在帝国宪法下,包括首相在内的各国务大臣是“平等”的关系,虽称“内阁首班”,但并未被赋予指挥统率整个内阁的权力。

即便如此,至日俄战争时期为止,元老仍能在外交、军事、财政方面起到综合协调的作用。作为曾为武士、深谙军事的政治家,元老们得以理解并控制军权。借用丸山真男的话来说,“元老与重臣等超宪法性存在的媒介”,在实现国家意志的一元化过程中发挥了关键作用。

随着元老相继离世,这种非正式的调节机制逐渐衰退。大正民主时期,政党试图通过政治来统合军事。

在第一次世界大战引发的世界巨变中,日本成为国际协调的主要一员,并担任国际联盟常任理事国。1920年代的政府政策,如幣原外交,即体现了对帝国主义扩张的抑制。

1920年代的舆论对军方极为严苛,政党主张大规模裁军。军人因此倍感压抑,这种反弹被认为是昭和时期军部崛起的原因之一。

原本,统帅权仅限于作战指挥(军令),而有关预算及体制建设(军政)的问题,仍被解释为需由内阁中的国务大臣辅弼。也就是说,虽无文人统制制度,但元老与政党通过政治运作弥补了这一缺陷。

(二)政府的失控

然而,随着时间推移,统帅权的意义被军方不断扩大化解释,成为排除政府与国会对军政、预算参与与控制的工具。

在政党内阁时期,政党之间为争夺政权互相揭露丑闻,失去了国民信任。1930年,反对党立宪政友会为反对立宪民政党内阁,与海军部分人士勾结,以伦敦海军裁军条约的批准问题为由,指责政府“干犯统帅权”,激烈攻击内阁。尽管最终勉强批准条约,但政党的信任度大幅下滑。

1935年,宪法学者、美浓部达吉提出“天皇机关说”,却被立宪政友会当作攻击政府的工具,军部亦卷入,演变成重大政治事件。冈田启介内阁试图以“应由学者讨论”的态度回避政治责任,最终仍屈服于军方压力,两度发布“国体明徴声明”,否定天皇机关说,并查禁美浓部著作。

自此,政府对军部的控制逐渐丧失。

(三)议会的失职

本应对军队实施监督的议会,也逐步丧失了功能。

最典型的例子是斋藤隆夫议员除名事件。1940年2月2日,斋藤在众议院本会议上发表“反军演说”,批评战争泥沼化并质询政府的战争目的。陆军认为该演说“侮辱军队”,强烈反弹并要求其辞职。最终以296票赞成、7票反对的压倒性结果通过其除名。该事件成为议员履行职责的罕见实例,但当时的会议记录至今仍有三分之二被删除。

在极为重要的预算审议方面,议会也未能发挥应有的监督作用。自1937年起设立“临时军事费特别会计”,至1942—45年间几乎全部军费都列入其中。其预算内容未公开,审议于秘密会议中仓促进行,形同虚设。

即便战况恶化、财政枯竭,陆海军仍为组织利益与面子激烈争夺预算。

此外,不应忘记,自大正末至昭和初期的十五年间,包括三位在任首相在内的多名政治家被国粹主义者或青年军官暗杀,几乎全是重视国际协调、主张以政治控制军队者。

五·一五事件、二·二六事件等暗杀与暴动,极大压制了文官自由讨论军政与预算的空间。

(四)媒体的堕落

另一个不可忽视的问题,是媒体。

1920年代,媒体对日本的对外扩张持批判态度。记者石桥湛山曾主张“应放弃殖民地”。但自“九一八事变”起,媒体论调急转,积极支持战争——因为“战争报道畅销”,报纸发行量激增。

1929年美国大萧条后,欧美经济衰退,实行高关税保护主义,日本出口受挫。经济不振与民族主义高涨相叠,德国出现纳粹、意大利崛起法西斯。思想界中也流行“自由主义、民主主义、资本主义时代已终结、美英时代已终结”,全体主义与国家社会主义逐渐被接受。

在此背景下,关东军发动“满洲事变”,短短一年半占领数倍于日本本土的领土。报纸大肆报道,国民为之迷惑,民族主义进一步高涨。

日本外交方面,尽管吉野作造曾对“满洲事变”的军部行为,清泽洌对松冈洋右的国际联盟退会予以严厉批评,但自1937年秋起,随着言论统制加强,对政策的批评被封杀,舆论仅剩对战争的支持。

(五)情报收集与分析的失败

当时的日本政府是否能正确认知国际局势,也值得反省。

1939年8月,正当日德在筹划反苏同盟时,德国却与苏联签署了《互不侵犯条约》,使平沼骐一郎内阁以“欧洲天地出现复杂怪奇之新形势”为由总辞职。这显示政府在国际与军事情报上,既无法充分收集,也缺乏正确分析与共享的机制。

(六)对今日的启示

战后日本,文民统制已制度化。《日本国宪法》明确规定内阁总理大臣及其他国务大臣必须为文人。《自卫队法》亦规定自卫队受首相指挥。

宪法规定首相为内阁首长,内阁对国会负连带责任,从制度上确保了内阁统一性。

并设立国家安全保障会议,加强外交与安全保障的综合协调。政府在情报收集与分析体制上也大幅改进,仍需与时俱进。

日本已针对“政治与军事无法统合”“军部以统帅权独立之名独走”的苦涩历史作出制度性修正。然而制度若无正确运作,终将徒具形式。

政治家必须具备驾驭自卫队的能力与见识,须不断努力正确理解并运用文民统制制度。须以不屈从无责任的民粹、不随波逐流的政治家气节与责任感为信念。

自卫队亦应以专业立场,积极向政治层说明国际安全形势、装备与部队运用状况。

政治则负有跨越组织壁垒、实现整合的责任。若因部门对立而迷失国家利益,便重蹈覆辙。应汲取陆海军因各自组织逻辑相争、军令军政缺乏协调而使国家陷入战争的历史教训。

政治必须以国民整体利益与福祉为念,以长远视角作出理性判断。若责任不明、局势僵化,社会易被“勇敢口号”与“冒险方案”所诱。海军永野修身总长曾将开战比作“手术”,称“虽有忧虑,但唯有决心除国难”;陆军大臣东条英机亦曾劝近卫文麿“人有时必须闭眼从清水舞台跳下”。这种以情绪取代理性判断的倾向,导致国家航向迷失,不可再犯。

防止政府误判的“刹车”,正是议会与媒体。

国会必须充分行使宪法赋予的权能,对政府进行适当监督。政治不可迎合一时舆论,不可为党派私利与个人保身而牺牲国益。

健全的言论空间必不可少,包括怀有使命感的新闻业。战争时期媒体煽动舆论,使国民陷入无谋战争的结果,必须深刻反省。应警惕过度商业化,拒绝狭隘民族主义、歧视与排外主义。

包括安倍前首相遇袭事件在内,任何以暴力践踏政治、威胁言论自由的行为,绝不可容忍。

所有这一切的基础,是“从历史中学习”的态度。直面过去的勇气与诚实,倾听他者主张的谦逊与宽容,正是本来的自由主义精神与健全而坚韧的民主主义的核心。

正如温斯顿·丘吉尔所言,民主并非完美的政治体制——它耗时、代价高、亦可能犯错。

正因如此,我们必须在历史面前保持谦虚,将教训深铭于心。

在自卫与威慑方面,保持必要的力量极其重要。我并非否定威慑理论的人。在当前安全环境下,这是负责任的安全保障政策所必须面对的现实。

同时,若一个国家中拥有无可匹敌力量的组织脱离民主统制而暴走,民主将瞬间崩溃。而若文人政治家误判,也可能将国家带向战争。因此,文民统制与适当的政军关系,其必要性与重要性永远不能被低估。政府、议会、军队、媒体皆须常怀此识。

斋藤隆夫在反军演说中指出:“世界历史即战争史,胜者并非正义,而是强者征服弱者。”他警告,若无视此现实,以“圣战”之名误国家百年大计,将酿成悲剧。因主张现实主义政策而被议会除名。

翌年,在众议院防空法委员会上,陆军省竟宣称:“空袭时市民避难,将被视为丧失战的意志”,从而加以否定。

这些虽属遥远往事,却足以警醒我们:议会放弃职责、精神主义横行、人命与人权被轻视,其后果何等可怖。不正视历史,便无以开拓未来。尤其当今日本处于战后最严峻复杂的安全环境之下,更应重新认识“从历史中学习”的重要性。

如今,拥有战争记忆的人愈来愈少,记忆风化令人担忧。正因如此,年轻一代在内的每一位国民,都应主动思考那场大战与和平的意义,并将之传承,以此进一步巩固日本作为和平国家的基石。

我将与全国国民一道,铭记那场大战的诸多教训,竭尽所能,确保此类惨祸永不再现。

令和七年(2025年)十月十日

内阁总理大臣 石破茂



【日语】

原文:(内閣総理大臣所感) 戦後80年に寄せて

(はじめに)

先の大戦の終結から、80年がたちました。

この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者をはじめとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。

私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。

これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。

過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。

国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。

第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。

政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。

戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。

(大日本帝国憲法の問題点)

まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。

大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。

内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。

それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山真男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。

元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。

第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。

1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。

従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。

(政府の問題)

しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。

政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。

しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。

このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。

(議会の問題)

本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。

その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。

議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。

戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子(めんつ)をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。

加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。

五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。

(メディアの問題)

もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。

1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。

1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。

深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚(こうよう)し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。

記者団の取材に応じる石破首相=9月5日、首相官邸で(佐藤哲紀撮影)

こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。

日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。

(情報収集・分析の問題)

当時、政府をはじめとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。

(今日への教訓)

戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。

内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。

さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。

政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。

政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。

自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。

政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。

政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒すには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東条英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。

政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。

国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。

使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽(あお)り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。

安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。

これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。

ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。

だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。

自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。

同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱(ぜいじゃく)なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。

斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。

翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。

どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は拓(ひら)けません。歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。

戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。

私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、能(あた)う限りの努力をしてまいります。

令和7(2025)年10月10日

内閣総理大臣 石破茂
https://www.chubun.com/modules/article/view.article.php/c1/213175
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