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老照片:望乡之情如此深沉执着
日期: 2015/07/13 14:05

征文作者 郑红(横滨山手中华学校 教师)

他是一个成功的商人、他是一个受人爱戴的侨领、他是一个严厉的父亲、他是一个顽固又可爱的老头儿、他叫李桂官。他1907年4月生于日本福冈市瓦町,父亲是福建人,母亲是日本人。二岁时随父母搬到旧门司市荣町。一直就住在北九州。
  小学他上了旧门司市锦町寻常高等小学。曾被同学嘲笑为“清国奴”、“黄鬼混血儿”。少年的他无法承受这样的屈辱躲在山里冲着树林哭喊。但这也无法平息他的愤怒,他第一次冲着母亲发问:“为什么?为什么跟中国人结婚?”
他曾那么单纯地认为自己是日本人,被嘲笑以后才开始萌生了解父亲的祖国的念头。升入门司商业学校后,这个学校比较重视成绩,对于人种问题似乎不那么在意,但仍能让他感觉到日本人的血统论,优越感。他仍是孤独的。为了排解孤独他开始接触文学和宗教书籍,他决心皈依宗教,做个职业宗教人士。
这种想法遭到了父亲的强烈反对。当时父亲李友枝是门司港唯一的贸易商,从中国输入中华料理的材料、酒、还有瓷器等,利用返航的船将松茸、干虾、鱼翅卖到中国。
父亲对长子桂官的期望是继承他的事业,从事贸易。于是父亲建议他如果想去北海道修道院,选择之前先去一次上海吧,慢慢游览游览。父亲希望他亲眼看看中国与生意上的伙伴混熟了,就会改变主意吧。
1928年,二十岁的桂官第一次踏上了中国的土地,看到满目疮痍的祖国,他清楚地决定了人生目标“要为祖国的重生做些什么”。
少年时代的孤独感没有了,为实现目标要先有工作。回到日本后他马上继承父业,发挥了从父亲那里传下来的商业才能,二十四五岁就展露头角,被称为“门司的李桂官。”
从父亲那里继承家业不久,1931年“九一八事变”、1937年抗日战争爆发,接下来是太平洋战争。从中国进口商品的渠道已经断绝,只有从日本国内进货,但极其匮乏。比这更严重的是战事的扩大,一种如坐针毡的心情袭上心头。


“祖国在受难,我们却束手无策,这样行吗?”
1944年,下决心带着一家老小九口人回中国。他开始整理家产,花了一年的时间把大一些的东西寄回中国。到了1945年四月,把房子也卖了,登上了门司港最后开往中国的船。出港不久,船就在下关市六连岛海域触水雷,船底遭受严重损坏,虽然没有沉没但也无法航行,靠别的船牵引三天后又返回门司港。日本,我只能在这里停留吗?对我来说,我只能在祖国以外的他乡以我的方式爱着他,这就是我的命运。
  就这样,桂官开始了他人生最艰苦的时期,跌入了人生的谷底。再做贸易吧没有资金,连房子也没有。尝试新的生意,受到特高课的严密监视,都被当成间谍。即使是散步也有人在后边跟着。只有靠变卖所剩无几的身边物品。“今天还能活下去”夫妻二人互相鼓励着。但就在战争即将结束时,二个幼儿因营养不良夭折了。
“五天办了二次葬礼,留下来的人怎么活下去我们无从知晓。贫穷是这样的可怕。现在想起来浑身就发抖。”那么坚强的桂官想到了自杀。
把他们从危机中解救出来的是他的妻子水宋。人只有跌到谷底,才能体会到什么是贵重。水宋卖鱼支撑着这个家。
终于熬到了战争结束。1946年,九州华侨约四千人,成立了全九州华侨总会。桂官被选为副会长兼会计。每天往返于门司港到小仓市船头町的华侨俱乐部,靠着这份工作生活安定下来。


1951年,当时的在日华侨大多数是支持台湾政府的,李桂官访问了刚刚成立二年的新中国,他决心将自己全部的热情都投入到这个新生的国家,但是,这是的桂官已经年过四十,人生重新来过为时已晚,因此把儿子送回中国代替他完成建设新中国的夙愿.
大成在门司东高中毕业一年,中成在同一高中刚刚毕业,二个人都不会说中国话,特别是作为一家支柱的大成有些犹豫不决。
当时中日还没有回复邦交,中成去中国的第二年,1958年在长崎发生了中国国旗事件,中日间的贸易往来中断,两国的关系就如一触即碎的玻璃一样.在这种情况下,李家的二个儿子什么时候能与亲人团聚无法保证。即使这样,他也义无反顾的将自己的继承人-他的儿子们送回中国.这一别就是二十年。从儿子的来信得知,兄弟二人从北京华侨补习学校完成中文学习后,大成从厦门大学毕业进入广州水产科学研究所;中成从北京煤炭工业大学毕业后,被分配到北京煤炭科学研究所。那时的兄弟二人一个已经四十岁,一个三十九岁,分别成为二个儿子和一个儿子的父亲了。
正像桂官期待的那样,他的儿子在中国的土地上生根开花结果了。梦想成真,1969年,妻子水宋去中国探亲,相隔十三年在中国的土地上相见,大家都是百感交集。现在中日恢复邦交,旅行变得简单了,但桂官没有想再相见。“见了,我想我会崩溃,让他们更坚固地植根于中国的土地上吧。”
他满腔热血地爱着中国爱得纯粹爱得义无反顾。在门司港他第一个带头支持新中国,组织华侨庆祝新中国成立,他也带领其他侨领为华侨华人排忧解难,成为华侨们爱戴的领袖。2000年2月4日他以93岁的高龄走完了他不平凡的一生。

    (感谢李桂官先生的女婿黎启榕先生、感谢前东京华侨总会会长殷秋雄先生、参考资料:门司港新闻记者新川忠孝的采访)
 商人として成功し、皆から愛された華僑のリーダー、厳格な父親、そして頑固で可愛らしい人――李桂官。1907年4月福岡市瓦町に生まれる。父親は福建人、母親は日本人。二歳の時に両親とともに旧門司市栄町に移住。その後も北九州に住む。
小学校は旧門司市錦町尋常高等小学校に通う。しかし同級生からは「清国奴、清国奴!」「混血野郎」といじめられた。まだ少年だった李桂官はその悔しさを山の中に入って泣き叫ぶことしかできなかった。しかしこれだけでは彼の怒りを収めることはできなかった。李桂官は母親に初めて尋ねた。「なぜ?なぜ中国人と結婚したんだ!」
彼は自分を日本人だと思っていたが、周りの人々に嘲笑われてからは父親の祖国に対する思いが芽生えた。李桂官は門司商業学校に進学。成績重視の学校で、国籍や人種にこだわるような学校ではなかった。だから、日本人の血を持つ人間として優越感さえ感じることもあった。しかし彼は孤独だった。この孤独感をなくすために文学や宗教の書籍を読むようになり、彼は宗教に帰依すると決心し、宗教関連の職に就こうと考えた。
彼のこの考えに父親は猛反対する。当時、李桂官の父李友枝は中国から中華料理の食材、中国酒、陶器などを輸入し、日本の松茸、干し蝦、フカヒレなどを中国に輸出するなど、門司港唯一の貿易商であった。
父親は長男桂官に自分の事業を継がせようと貿易業に従事することを期待していた。だから父親は桂官に「北海道の修道院に行く前に、まず上海に行ってゆっくり観光でもしたらどうだ。」と提案した。父親は桂官に自分の目で中国を見て、取引先の人たちと親しくなれば、桂官の考えも変わるのではないかと考えたのだ。
1928年、二十歳の桂官は初めて上海の地に足を踏み入れた。しかし、桂官が目にした風景は彼の祖国に対する思いを踏みにじるものであった。そこで桂官は決心する「祖国再生のために自分も何か役に立てないか」と。
少年時代に感じた孤独感はもうなくなっていた。目標を実現するためにはまず仕事を探さなくてはならない。日本に戻りすぐに父親の事業を継ぎ、父親譲りの商売の才能を発揮させ、二十四、五歳にして頭角を現し「門司の李桂官」と呼ばれるほどになっていた。
家業を継いで間もなく、中日関係に暗雲が漂い始めた。1931年「九一八事変(満州事変)」、1937年抗日戦争勃発、さらには太平洋戦争。中国からの輸入経路が断ち切られ、品物を日本国内で仕入れるほかに方法はなかったが、品数は非常に乏しかった。さらなる戦争の拡大で彼は針の筵に座るような気持ちに襲われた。
 「祖国が難に遭っているというのに、私達は何をすることもできない、これでいいのだろうか。」
1944年、一家9人を連れて中国に帰ることを決心する。家財道具の整理を始め、一年かけて大きい物を中国に送った。1945年4月には家も売り、門司港から最後となる中国行きの船に乗り込んだ。出航間もなく、船は下関市六連島の海域で水雷に接触、船底が破壊され、沈没は免れたものの航行不能となり、他の船に牽引してもらい三日後に門司港へ帰港した。「日本よ、私はこの地に留まることしかできないのか。私は祖国以外の地から私なりの形で国を愛するほかないのか、これが私の運命なのだ。」
このように桂官は人生で一番苦しい時期が始まり、人生のどん底に入ってしまうのである。もう一度貿易をやるにも資金はなく、住む家すらない。新しい商売をやろうにも、特高警察の厳しい監視下にあり、スパイと疑われてしまう。散歩でさえ後を付けられる。わずかしかない身の回りの物を売って生活するしかなかった。「今日も生き延びることができた」夫婦二人で励まし合った。しかし、戦争が間もなく終わりを告げる頃、二人の幼子を栄養失調でなくしてしまう。
「五日で二度も葬儀、残された者はどう生きていけばいいのだ。貧困とはどんなに恐ろしいことか。いま思い出すだけで身震いがする。」あんなに気持ちの強い桂官も自殺を考えた。
 彼らを救ったのは桂官の妻水宋。人はどん底を経験して初めて本当の意味の「貴重」を知ることができる。水宋は魚を売って家計を支えた。
なんとか戦争終結まで生活を保たせることができた。1946年、九州華僑約四千人が「九州華僑総会」を立ち上げる。桂官は副会長兼会計に選出される。毎日門司港と小倉市船頭町の華僑倶楽部を往復し、この仕事を頼りに生活を安定させた。
 1951年、当時在日華僑の大多数は台湾政府を支持していたが、桂官はまだ建国二年目の新中国を訪問し、自分のすべてを新国家に捧げると決心したが、この時桂官はすでに四十を過ぎており、改めて人生をやり直すにはもうすでに遅かった。桂官は自分の悲願を達成させるために息子を中国に戻し、新中国建設に携わらせることにした。
 大成は門司東高校を卒業して一年目、中成は兄と同じ高校を卒業してすぐ、二人は中国語を話すこともできず、特に一家の大切な長男である大成は中国行きを決めかねていた。
 当時中日間の国交はまだ回復しておらず、中成が中国に行った二年目、1958年に長崎で中国国旗事件が発生、中日間の貿易が中断してしまい、両国の関係も不安定な状態で、李家の二人の息子たちもいつ自分の家族に会えるのかもわからなかった。桂官はためらいながらも自分の後継ぎの息子たちを中国に送り返したのだ。それから二十年、息子の便りによると、兄弟二人は北京華僑補習学校(現北京華文学院)で中国語を学び、大成は厦门(アモイ)大学を卒業し広州水産科学研究所へ、中成は北京石炭工業大学を卒業後、北京石炭科学研究所に配属された。その時すでに兄弟の一人は四十、もう一人は三十九になり、二人の息子と、一人の息子を持つ父親になっていた。
桂官の期待通り、息子たちは中国の地で根を張り花を咲かせ実を結んだ。夢は現実となり、1969年、妻水宋は中国へ息子たちに会いに行くことになった。十三年ぶりに中国の地で再会し、皆複雑な思いであった。今や中日も国交が回復し、旅行も簡単に行けるようになった。しかし、桂官は再会を望まなかった。「彼らに会ったら私は崩壊してしまう。彼らがより中国の地に根付いていくように。」
 桂官は心の底からただ純粋に祖国を愛した。門司で最初に新中国を支持し、華僑の先頭に立って新中国成立を祝った。華僑華人の問題解決のため他の華僑リーダーたちをもリードし、華僑界から愛され尊敬されるリーダーとなった。2000年2月4日、彼の波乱万丈な人生は93歳で終えた。
        (日文翻译:罗顺英)

 

 

 

 

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