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照片上的故事:五星红旗飘扬在东京上空
日期: 14年07月3期
照片上的故事:五星红旗飘扬在东京上空

征文作者 : 朱铭江(旅日二代华侨。现任横滨华侨总会副会长)

照片的年代(具体时间)·拍摄地点 : 2004101日•鸿乐中华料理店

照片上的人物以及与作者的关系 : 父亲

 

这张相片是在十年前的国庆节拍的。国旗左边广告牌上的“鸿乐”是当年家父经营的小小中华料理店。地点是横滨市南区真金町一个极普通的日本社区。这家叫做“鸿乐”的小店,乃是父母曾经悉心经营的中华料理店,我们兄弟俩就是靠“鸿乐”拉扯大的。

家父是在他16岁那年背井离乡飘洋过海来日谋生的,1935年他最初由神户登陆,后来辗转来到了横滨。家父少小离家,来日当初还有兄长们同在,后来他们纷纷回了国,最后就只有他一个在日本留了下来。

来日后家父曾经在印刷厂等地方工作过,后来转了行,来到一家横滨中华街的菜馆,拿起了菜刀做起了掌勺烧菜的工作。当他累积了多年的经验之后,最终他实现了自己梦想,走出中华街来到了横滨市南区的一处日本人社区开了“鸿乐”,当家作主成了这家店的店东。

若干年之后的1964年,也就是东京举办奥运会那年的初冬,家父迎娶了家母,之后夫妻两人就默默辛勤地在这里经营“鸿乐”,小店也赢得了小小的口碑。

家父一向都与当地真金町的人们友好相处,自然友善地融入了原来并不属于自己的地方,直至他200687岁离世,家父人生后半的大部分时间就是在这里度过的。

家父东渡来日后,一直都在怀念祖国,数十年来他那思乡念祖的情怀一直都没变。

每逢十一国庆,“鸿乐”的门前就会挂起一面鲜艳夺目的五星红旗,以此来表达家父对祖国的热爱和思念,这就是他爱国爱乡的具体表现。

起初周围的邻居不太明白十一悬挂中国国旗的来龙去脉,每每有人问起其缘由,家父都会仔细地向他们解释中国国庆节的来历。久而久之,每当十一“鸿乐”悬挂着五星红旗的这一天,住在我们周边的日本朋友们都会知道中国的国庆节到了,则会向家父表示祝贺。

能在周围全是日本人的环境下,坚持每逢国庆都在店铺门前悬挂国旗,这并不是一件容易事呀。

“鸿乐”还有一个广受周围邻居们欢迎的节目,那就是在每年的阳历大年夜倒计时除旧迎新的时刻,就在踏入新年的一刹那,“鸿乐”门前便会响起震耳欲聋的鞭炮。

真金町有一座以“酉の市”即类似庙会或神诞的节庆活动而著称的大鹫神社,“鸿乐”就座落在其神社的斜对面,每年大年夜接近0点的时候,会有町内外的善信前往该神社祈福“初詣”。当神社的新年鼓声被敲响的时候,家父就会点燃悬挂在“鸿乐”门前的一串长达二米的鞭炮,劈哩啪啦清脆而接连不断的鞭炮声即会响彻真金町的夜空。来神社静静许愿过的人们,一听到鞭炮响起,都会赶着从神社里跑出来围绕在鸿乐的周围看热闹。这多年来“鸿乐”过年的迎春爆竹,已广泛地被町内的人们所认同和接受,积年累月成为了当年真金町如同“除夕钟声”般过年的风景诗。

日本人过年是不会燃放烟花爆竹的,但能在非中华街的纯粹是日本人的圈子里,以中国人传统的形式热热闹闹地庆祝新年的到来,可谓家父胜任了担任中日民间交流大使的使命。这也是家父“与邻为善、与邻为伴”理念的具体实践。

“鸿乐”是家父一代筑起的家园,当家父卧病乃至仙逝之后,“鸿乐”也就成了历史。后来我们家由真金町搬迁到另外一个地方,“鸿乐”原址和周边的地区已改建成为了专供长者养老的公寓,当年“鸿乐”十一的五星红旗和过年的鞭炮,均业已成了真金町居民的美好回忆了。

 

日文

この写真は10年前の国慶節に撮られたものです。国旗左側の看板にある「鴻楽」とは、当時父が営んでいた小さな中華料理店です。場所は横浜市南区真金町と言う所で、ごく普通の日本の町の中にありました。「鴻楽」は父と母が手を携え経営していた中華料理店で、私たち兄弟も「鴻楽」のおかげで大きく成りました。

父は16歳のときに故郷を離れ、はるばる日本にやって来ました。1935年に神戸に上陸し、そののちに横浜にたどり着きました。父は年少時に故郷を離れ、来日当初は兄ら年長者も一緒でしたが、彼らは後に帰国してしまい、最後は父だけが日本に残りました。

来日当初父は印刷所などで働き、後に転職して横浜の中華街で中華包丁を持ち中華鍋を振って中華料理を作るようになりました。そこで多くの経験を積んだ父は、遂に念願だった自身の夢をかなえるべく中華街を飛び出し、横浜市南区の日本人の暮らす町に「鴻楽」を開店させ自身の店を構えるに至り、ようやく一国一城の主と成りました。

それから何年かが経過した1964年、東京オリンピックが開催された年の初冬、父は母と結婚し、その後は夫唱婦随で一生懸命に店を切り盛りし、「鴻楽」は多くのなじみ客に愛される評判の店に成りました。

父は真金町の地元の方々とも親しく接し、もともとよそ者であったにもかかわらず、いつしか自身もその中に自然と溶け込んでいきました。結局200687歳で他界するまで、父の人生の後半の大部分の時間はこの地で過ごすことと成りました。

日本に渡ってからの父は、いつも祖国のことを念じ、数十年経ってもふるさとを思う気持ちにいささかの変化もありませんでした。

毎年十月一日の国慶節を迎えると、「鴻楽」の軒先には鮮やかな五星紅旗が翻りました。それは父が国を思う気持ちの表現であり、祖国を思い故郷を愛する行動を具現化するものでした。

当初、近所の人たちは十月一日に中国の国旗が掲げられるいわれが判らずにいました。ひとたびその理由を尋ねられると、父は丁寧に中国の国慶節の起源を説明しておりました。年を重ねるうち近所に暮らす日本の人たちも、十月一日「鴻楽」に五星紅旗が掲げられているのを見ると、この日が中国の国慶節であると言うことをさとり、父に対し祝意を示すように成りました。

まったくの日本人だけの環境下で、毎年決まって国慶節に自分の店先に国旗を掲げ続けることは、容易なことではありません。

そして「鴻楽」にはもう一つ近所の人たちが楽しみにしている行事がありました。それは毎年の大晦日の新年を迎えるカウントダウンで、0時になると「鴻楽」の玄関先で鳴らされる爆竹です。

真金町には「酉の市」で有名な大鷲(おおとり)神社があり、「鴻楽」はちょうど神社の斜向かいに店を構えていました。毎年大晦日の新年を迎える0時近くになると、近所の人たちは神社に初詣に向かいます。そして新年の到来を知らせる神社の一番太鼓が鳴ると、父は「鴻楽」の軒先に吊るされた長さ二メートルにも達する爆竹に火をつけました。パンパンパチパチと小気味良く鳴り響く爆竹の音は真金町の夜空に鳴り響き、すると神社で静かに願い事をしていた人たちも、爆竹の音を耳にするやいなや、こぞって神社の境内から駆け出し「鴻楽」を取り囲みました。毎年繰り返される「鴻楽」年越しの爆竹は、広く地元の方々に受け入れられ、年を重ねるにつれ「除夜の鐘」のように真金町では年越しの風物詩として定着していました。

本来日本人は年越しに爆竹や花火を鳴らす習慣はなく、中華街でもない純粋な日本人のコミュニティの中にあって、中国人の伝統にのっとった形で賑やかに新年を祝うことが出来たのも、父が中日間の民間交流大使の役割をうまく果たしていたからでしょう。これもひとえに「隣人と仲良くし、隣人をパートナーとする」という理念の具体的な実践にほか成りません。

「鴻楽」は父が一代で築いた城でしたが、父が病に倒れ他界すると「鴻楽」も歴史に成りました。後に我が家は真金町を離れよそに引っ越しし、「鴻楽」のあった場所は、周囲を含め老人のための福祉集合住宅と成りました。あの頃「鴻楽」で十月一日に揚がった五星紅旗と年越しの爆竹の記憶は、今でも真金町の方々の楽しかった思い出として残っているに違いありません。

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