登录名: 密码: 忘密码了
    设为主页 |  关于我们 | 联系我们  
老照片的故事:中华街上的安记粥铺
日期: 14年11月3期
老照片的故事:中华街上的安记粥铺
征文作者:曾峰英(横滨山手中华学校第35届毕业生)
照片的年代:1959年前后•1997年

横滨中华街阡陌纵横,店铺鳞次栉比,号称世界最大的唐人街。进入中华大街过中山路再向前走,有一条与大街交叉的路叫香港路。粥铺“安记”就座落在这条街上。从我记事时起,奶奶就经常带我来这里。我的记忆中,店里店外几乎一直没有变过,椅子套、墙壁的装饰30年不曾改变。当然开店当初我还没有出生,但我觉得应该就是这样。 安记的粥在菜单上有无骨鸡肉粥和带骨鸡肉粥。以前,我喜欢无骨鸡肉粥,我点这个粥时,“别点无骨鸡肉粥,带骨的才好吃。”奶奶就会对还是幼儿园小孩子的我说,这时,安记的奶奶就马上说:“带骨肉最好吃。”给我留下了我想吃的没能吃到的深刻印象,也许正因为如此我现在一直喜欢吃无骨鸡肉粥。从那时起我就记住了奶奶说的鸡呀鱼呀骨头周围的肉最好吃,来到安记我就会回想起那时的事情。

安记奶奶徐秀兰,1919年(大正8年)在横滨出生。四岁时遭遇关东大地震,失去了姐姐,没有住的地方,于是搬到了神户。她还记得那时在神户中华街的关帝庙铺上草席避难的情景。当时父亲在三岛经营“来来轩”中华料理店,他徒步沿着铁路走了三天来接她们,那以后7年间一家人在三岛生活。一直经营顺利的“来来轩”因“九一八事变”的影响,客人越来越少,只好关了店铺又回到横滨。

1932年(昭和7年)在横滨中华街开了粥铺“安记”。因为客人船员较多,早晨5店就营业,深夜1点开始做准备,徐秀兰经常帮忙,那时她就开始炸馒头。

姐姐遇难后徐秀兰就成了兄弟中最年长的,为了照顾弟弟妹妹们,除了在店里帮忙外还到棉布工厂打工,到中国服装店做钉扣子等工作来赚些零花钱。渐渐地学会了做唐装,以后在东京的高岛屋做订做唐装工作,也给我的奶奶做过旗袍。到了18岁以后和朋友一起去旅行,去郊游。因那些朋友都是基督教徒,于是一起去中华街的“横滨华侨基督教会”唱赞美歌。当时广东人很多,牧师也是广东人,都用广东话,赞美歌也用广东话唱。

付出艰辛劳动的徐秀兰也有她的休闲放松时间。每年正月去浅草祭祀,回来的路上一定到宝冢剧场看歌舞伎,看日本的喜剧王榎本健一的表演,这些成了她特别的享受。25岁经过相亲结婚,新婚不久就赶上美军空袭。在战后粮食紧缺的时期坐电车到二俣川的农家用配给的线或袜子换米才将粥铺维持下来。后来生了一男一女。

说到中国就会想到麻将。当时在中华街住的中国人都喜欢打麻将,徐秀兰不打麻将去浅草、去剧场在当时看来是多么时髦摩登啊。现在她将炸馒头做面团的技术传给外甥,她每天7点前来店里炸,是一位还活跃在第一线精神十足的老奶奶。经常在饮水机旁坐着、喝着冰水、吃着炸馒头,这样的光景是人们熟悉的style.在那里与客人聊天成了她的一大乐趣。

徐秀兰已经作古,她的后人继承了她的精神和信念一直在全心全意的经营着安记,她在天国一定会很安慰吧。
 
(中文翻译:郑红)


 

中華街の大通りから一本横道に入ると、お粥屋「安記」がある。華僑の朝の台所として、昔から活躍してきた店の一つである。私も、物心ついた頃から祖母に連れられよく通った。

私の知る限り、店の内装、外装はほとんど変わっていない。それもそのはず、椅子のカバーや壁のクロスは30年前に換えたっきりであるから、その当時、まだ生まれてない私にとっては何も変わらない「安記」なのだ。安記のお粥メニューには、骨なしの鶏粥と骨付きの鶏粥がある。その昔、私は骨なしの鶏粥が好きで注文すると、祖母は「骨なしの鶏はだめだよ、鶏は骨付きがおいしいんだから」と幼稚園児の私によく言っていた。すると安記のおばあちゃんも「そうよ、鶏は骨が付いているところがおいしいのよ」と、自分の食べたいものを食べれなかった記憶が残る。その反動で私はいまだに骨なしの鶏粥を食べ続けているのかもしれない…。鶏でも魚でも骨の周りに付いた肉が一番おいしいのだと、祖母に教えられた昔の記憶が、安記に来るとよみがえる。

安記のおばあちゃん、徐秀蘭(ジョシュウラン)。1919年(大正8年)横浜で生まれる。四歳の時関東大震災にみまわれ、その時お姉さんが他界。住むところがなく横浜から神戸へと移った。神戸の中華街にある関帝廟(中国のお寺)でゴザを敷き、寝ていたことが記憶に残っているという。当時、三島で中華料理屋「来来軒」を経営していた父は、家族の安否を気遣い3日かけて線路づたいに歩いて迎えに来た。後に7年間、家族は三島で生活するが、順調かと思われた「来来軒」は九一八事変(満州事変)の影響で、日本人の感情悪化が原因となり客足は減少。店を閉めて再度横浜に戻った。

1932年(昭和7年)横浜中華街でお粥屋「安記」を開店。客は船員が多かったため朝5時に店を開け、夜中の1時からの仕込みを徐さんは手伝い、この頃から揚げパンを揚げている。

姉が他界してから兄弟の中で一番年上になった徐さんは、兄弟の面倒を見るため、店の手伝いのほか、綿めん工場に勤めたり、チャイナ服の仕立て屋で布製の船員服のボタンを作り、お小遣いを稼いでいた。徐々にチャイナ服の仕立てを習得し、後に東京の高島屋でチャイナ服の注文を受けては仕立て、私の祖母も仕立ててもらっていた。18歳になると、友達とグループで旅行やピクニックに行くようになる。その友達がクリスチャンだったので、中華街にある「横浜華僑基督教会」へ行き、賛美歌を歌うようになったとか。当時は広東人が多く、牧師も広東人だったため教会での行事は全て広東語で行われ、賛美歌も広東語だったという。

そして苦労を重ねてきた徐さんにも楽しみができる。毎年お正月になると浅草へお参りに行き、その帰りに必ず宝塚劇場へ寄って歌舞伎やエノケンを見に行った事はなによりも楽しかったという。25歳で見合い結婚。結婚後すぐに空襲にみまわれ、戦後の食糧難時代には電車で二俣川の農家まで、配給の糸や足袋を持っていってお米に換えてもらい、お粥屋を続けたのだった。後に一男一女をもうけ、今日に至っている。

チャイニーズというと麻雀。当時の中華街に住む中国人達は、盛んに麻雀をやっていたが、麻雀をやらずに浅草へ遊びに行き、劇場通いをしていた徐さんはとてもモダンでしゃれている。今は甥(おい)に揚げパンの生地作りを伝授し、徐さんは朝7時前に店に来てそれを揚げている。まだまだ現役でがんばる安記のおばあちゃん。いつも飲料水機の横に座り、その冷たい水を飲みながら、揚げたての揚げパンを食べている光景は、もうおなじみのスタイル。そこでお客さんといろんなお話をするのが楽しみの一つとか…。

徐さんは亡くなったが、彼女の子孫は彼女の精神と信念を貫いて、いまも安記を経営している。徐さんはきっと天国で安らいでいるだろう。

 

https://www.chubun.com/modules/article/view.article.php/c51/156228
会社概要 | 广告募集 | 人员募集 | 隐私保护 | 版权声明
  Copyright © 2003 - 2020中文产业株式会社 版权所有