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照片上的故事:在横滨遥望外公外婆的故事
日期: 2014/10/16 15:49
照片上的故事:在横滨遥望外公外婆的故事

征文作者:  吴红涛(在日华侨三代)

照片的年代(具体时间)·拍摄地点横滨元町·1953前后

照片上的人物以及与作者的关系外祖父

 

 

 

 

照片上是我的外公余东照和我的小舅舅,地点是现在横滨元町的超市union附近。后面是他工作的中华饭店“彩华”。算一算应该是六十多年前的照片了。

很羡慕孩子们谈到自己的爷爷奶奶或外公外婆,因为我几乎没有体会到老人给与的爱。爷爷奶奶在我父母结婚前就相继去世了。外婆住在北京的大舅舅家,她又是广东人,只会说广东话,况且我当时还是不谙世事的小女孩,所以偶尔去大舅家也几乎没有留下什么和外婆游戏的印象。只是知道作为一个女人,一个母亲,她很辛苦地养大七个儿女。她的人生道路:从广东到日本横滨,又在五十年代,带着六个孩子回到中国,一直到她在北京离世。因为年龄幼小,我一直没有多想:为什么只有外婆,没有外公。后来,1974的初夏,外公突然出现在我们眼前。那是我第一次,也是最后一次见到他。外公特意从日本飞到北京去看望自己的妻子。据说从北京回到日本,老人好似了却了一桩心事,不久便在仙台离世。

关于外公和外婆的故事,几乎是我成人以后,陆陆续续从各方面听到的。外公外婆家本就在横滨元町菲莉斯女学院石阶下一处小楼,现那里几经变换早已成了他人的居所。据曾经旧地重游的母亲说,当年的邻居还有住在那里的。上面说到的中华饭馆“彩华”早已不在了。原因有很多,老人已经去世多年作为后人不能妄加评说,但那个时代的男人个人生活荒诞一些也是正常事,因此家庭生活不是很稳定。据说为此我的外婆和姨妈舅舅们受了不少苦,好在外婆很坚强,她的孩子们生活自理能力也很强,他们挺过来了。但是,财产被挥霍了,加上各种原因,外婆最终携子回到了中国,希望在新中国的土地上开始新的生活。现在想想,外婆做出这样的选择要多大的决心!而她的孩子回到国内,在华侨补校(现华文学院)强化中文后,进入国内的学校,并考入大学,后来活跃在各个领域,为祖国建设,也为中日友好作出了很多贡献。

从我们的家的立场来看外公余东照应该不算是个理想的丈夫,理想的父亲,但是他在华侨界,帮助过很多人。他曾经担任过仙台饭店的总厨师长,同时收过很多徒弟,并很热心地指导他们。现在日本国内一个有名中国料理店的创始人也曾是他的徒弟,至今还念念不忘余先生的恩情。而我觉得最了不起的是新中国成立后,他积极参与收集在日遇难劳工的遗骨,并作为横滨代表于1952年乘坐”兴安丸”号轮船,把这些劳工遗骨送到祖国,将他们安葬在祖国的土地上。就这一点来说,让我感到非常自豪。

关于我的外祖母和外祖父,还有很多我不知道的故事,非常遗憾。前人的故事后人无法续写,前人的情感生活后人也无法评说,但我想他们是相爱的,不然外婆怎么终老一生没有改嫁,外公怎么在中日邦交刚刚恢复华侨终于可以回国探亲之际立刻去北京见外婆,也许是悔过,是还愿,但不管怎样的形式都说明他心里有她。个人的悲欢离合不正是那一代华侨们的缩影吗?幸福与不幸说得清楚吗?

上个世纪初,横滨中华街几乎都是从广东来的华侨, 他们都有自己坎坷的人生,有各种各样悲伤离合爱恨交织的故事,但是总要坚强地活下去。他们过着普通人的生活,白手起家,一代一代艰苦奋斗。我们都希望年轻人过得幸福快乐,又希望他们都能像我们的前辈一样勇敢而坚韧不拔。

 

 

 

 

この写真は60年ほど前、私の母方の祖父余東照と叔父が、中華飯店「彩華」の前で撮影したものです。現在の横浜元町ユニオン付近です。

子供たちが自分のおじいちゃんやおばあちゃんの話をしていると、とても羨ましく思います。なぜなら、私の父方の祖父母は私の両親が結婚する前に亡くなっており、母方の祖母は北京の伯父の家に住んでいました。でも彼女は広東人で広東語しか話せません。伯父の家に遊びに行っても、私はまだ幼かったので、言葉が通じない祖母と遊んだという記憶もない。私には祖父母からの愛されたという経験がほとんどありません。ただ、一人の女性として、母親として、祖母が七人の娘たちを育ててきた苦労は、今になって少しずつ自分なりにわかってきたと思います。祖母は広東から日本の横浜に来ました。1950年代に6人の子供を連れて中国に戻り、この世を去るまでずっと北京で過ごしました。なぜ祖母だけで祖父はいないのかなど、幼いころはあまり考えたことがありませんでした。1974年初夏、祖父が突然私たちの前に現れました。その日が私にとって最初で最後に祖父に会った日でした。祖父はわざわざ日本から飛行機に乗って、北京にいる自分の妻に会いに来ました。聞くところによると、彼は何かをやり遂げたかのように、北京から戻り間もなくして仙台で亡くなったそうです。

祖父母の話は私が成人してから、少しずついろんな所から聞きました。祖父母は横浜元町、フェリス女学院の階段下にある戸建ての家に住んでいました。今はほかの方がお住まいですが、お隣はいまも同じ方がお住まいです。中華飯店「彩華」はとうにありません。理由はいろいろあるようです。あの時代の男性は少々生活が荒れることもよくあったことで、家庭内が不安定になり、祖母と伯父や伯母たちはとても苦労したそうです。でも祖母はとても健気で、子供たちも自己管理がしっかりできていたため、なんとか生活をすることができました。しかし、祖父に金銭を湯水のように使われ、祖母は仕方なく子供たちを連れて中国に戻り、新中国の地で新しい生活をスタートさせました。いま考えると、この祖母の選択にはどれだけの決心が必要だったことか。彼女の子供たちは中国に戻り、華僑補習学校(現在の北京華文学院)で中国語を強化させ、中国の学校に入り大学にも入学しました。その後、各方面で活躍し、祖国建設のため、中日友好のために多大な貢献をしました。

私たちから見ると、祖父余東照は理想的な夫でも父親でもなかった。でも彼は華僑界で多くの人に手を差し伸べてきました。仙台飯店の総料理長となり、多くの弟子を育ててきました。いま日本で活躍している有名中華料理店の創始者も祖父の弟子で、余さんのご恩は今でも忘れないと言っています。そして、私が祖父を誇りに思うのは、新中国成立後、彼は積極的に日本での中国殉難者の遺骨を収集し、横浜代表として「興安丸」に乗船し、それらの遺骨を祖国の地へ運びました。

祖父母についてまだ知らないことがたくさんあることをほんとに残念に思います。先人のストーリーを後代が続けて書くことはできません。しかし私は、彼らは愛し合っていたと思います、祖母は一生再婚をすることはありませんでしたし、祖父は中日国交回復と同時にすぐに祖母に会いに北京に行きました。もしかしたら過ちを悔い改めたのかもしれませんし、お礼を伝えに行ったのかもしれません。いずれにせよ、彼の心の中には祖母がいたことの証しだと思います。このような人生常ならぬ移り変わりはあの世代の華僑たちの縮図ではないでしょうか。幸か不幸か答えを出せるでしょうか。

20世紀初め、横浜中華街はほとんどが広東から来た華僑でした。彼らはそれぞれに波乱万丈の人生を送りましたが、逞しく生きていました。普通の生活を送っていたように見えますが、裸一貫で身代を築き上げ、どんな困難にも立ち向かってきました。今の若い人たちがいつまでも幸せに、そして先人たちのように勇敢にどんな困難にも耐え抜くことができるような人間になってもらいたいと願うばかりです。

                        (日文翻译 罗顺英)

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